2017年08月08日

8月7日の記事

ワンコのブログなんですが
ボケて死ぬ前に・・・

まぁ「記紀に書かれた事が事実⇒例え、事実では無かったとしても・・・」
⇒それをひっくり返す程の証拠が今更出ないから!!
ただ自分なり「事実を推論するだけです。」⇒自分が納得すればOK.

>>「かぐや姫」
古代の日本が「母系集団で~男が通う婿入り婚。」

姓⇒「女性の氏母体」

http://manoryosuirigaku2.web.fc2.com/chapter2-8.html

 ところで、天武期に王姓を許されたのは大王から五世以内の人物だったことを既述しました。
そして大海人皇子が即位する前からだろうと思われますが、倉麻呂の子の日向は「日向王」と称され、日向の甥になる安麻呂は「壬申の乱」で大海人皇子についた「石川王」だと推定される、倉麻呂の孫です。
しかし馬子を含めて、彼らの直系の祖に大王はいません。

 だから、「(蝦夷が)母の財力によって」とある文は、逆にこの母を義母、つまり、蝦夷の妻の内の一人の母(義母)が太媛だったことを示している、と考えられるのです。

 ところで、蘇我と同祖と伝える有力一族、紀(臣)氏が伝えた『紀氏家牒』(きしかちょう)は、蝦夷(武蔵大臣)が物部族の神主家などを従えて「物部首」と称した、としています。そして、『紀』で身狭(むさし。武蔵)臣とも呼ばれた蘇我日向(身狭)が、「壬申の乱」の記事で、近江朝から飛鳥の興兵に使わされた宮人として「物部首(もののべのおびと)日向」と記されます。日向が天武期以降に活躍した記述はありませんが、皇極期には中大兄皇子の陰謀に利用され、『続紀』(「文武紀」)では日向王として死去を記されたほどですから、蘇我一族の中では名立たる官人だったわけです。
 蝦夷が大臣になる前から、蘇我氏や物部氏の蔵(倉)の管理に当たっていたのは、伯父の蘇我倉麻呂(そがのくらのまろ)だったと考えられ、孝徳朝で右大臣になった石川麻呂が日向に「物部首」の名と職責を与えたのではないか、と思っています。

>>皇祖神が「天照大神」
出身が蘇我氏なのに「物部首」⇒「入り婿」

卑弥呼も天照大神も女性でしょう??


<<石上神宮>>

http://www.isonokami.jp/shinwa/index.html

http://blog.goo.ne.jp/yoshi_iltuki/e/7ac0b5f6e53705f6c33e8588bc75ef15

「太姫(布都姫?!)が女王」とすれば~「物部守屋は親衛隊。」


http://www.bell.jp/pancho/k_diary-13/2014_12_05.htm

「蝦夷の母は物部弓削連(守屋)の妹の太姫で、蝦夷が弓削連死亡後に祭首を補佐した」とも記されています。
⇒弓削連(守屋)一族が滅んだだけ・・・
物部氏は「父系社会のピラミッド型では無く」~母系の独立した水平の氏集団(阿波踊りの連??)

太姫からすれば
「守屋が、尼僧を~裸にして、鞭打ち !」
⇒「野蛮な武者」

蘇我馬子⇒「流石は私が選んだ男  !!」
 「教養が有って~優しい  ((好き)) 」

相思相愛⇒「歌謡  高砂」の世界  ((爆笑))
物部氏の女性が「鶴」で~男が「鷹=武神系」ですよ?!

 ちなみに、「天武紀」(上巻)は病に臥した天智大王が大海人皇子を呼び出すのに、蘇我安麻呂(安摩呂)を遣わしたところから物語が始まります。彼は連子の子で、分家の中では大海人皇子に好意を抱いていた人物でした。またその妹の娼子(しょうし。まさこ)は不比等の初期の妻になって、武智麻呂(むちまろ。南家の祖)、房前(ふささき。北家の祖)と宇合(うまかい。式家の祖)を生んだとされています。

 物部太姫が馬子の妻だったから兄(守屋)を討つ夫(馬子)に策を授け、持統女帝は父(天智帝)を捨てて夫(天武帝)に従いました。
しかし、宝皇女が蝦夷の意向によって田村皇子と再婚した理由は、何だったのでしょうか?何か裏があるようですが、解明できません。

>>蘇我氏の血統である「源氏・藤原氏」は、「光源氏など・・・」⇒女性に人気!
地方豪族の物部氏に婿入り~「物部首(国造)など・・・」

http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-4.html?sp

大倭の国の仏法は、斯帰嶋(しきしま)の宮に天の下治しめし天国案春岐広庭天皇の御世、蘇我大臣稲目宿禰の仕へ奉る時、天の下治しめす七年歳次戊午十二月、度(わた)り来たるより創(はじ)まれり。(『元興寺伽藍縁起』:下記URLに現代語訳あり)
http://www.ookuninushiden.com/newpage24.html

志癸嶋(しきしま)天皇の御世戊午年十月十二日、百済国主の明王、始めて仏像経教并びに僧等を度(わた)し奉(たてまつ)る。勅して蘇我稲目宿禰の大臣に授けて興隆せしむる也。(『上宮聖徳法王帝説』)
http://www2.shiba.ac.jp/~shakaika/newpage4.htm


>>行基や空海が「民衆の為の仏教を広めた。」⇒こちらは有名ですが・・・

https://kotobank.jp/word/%E5%96%84%E4%BF%A1%E5%B0%BC-88421

達等はおそらく当人が百済から渡来した中国系帰化人で,これを《元亨釈書》が南梁の人と記しているのは《扶桑略記》に大唐漢人とあるのを中国渡来と速断したものであろう。…

>>百済から来たからって、朝鮮人とは限りませんよ?!
少なくとも、今の朝鮮人とは、DNAが多分違うと思います。

<<司馬 嶋の功績>>

①女性の為の宗教(先祖や菩提を弔う)を広めた。
②勉強して尼僧・・・後の紫式部や清少納言などに影響を与えた??
③平民も努力すれば~高い地位につける。

**行基や空海ほど知名度が無いのが~残念ですね。


<<ニギハヤヒ>>

http://tenkataihei.xxxblog.jp/archives/51868027.html

・ニギハヤヒは土着の長髄彦を殺して(妹の兄)~ニニギに帰順。
・蘇我馬子は物部守屋を殺して(妹の兄)~天皇に帰順。

ニギハヤヒは「石上神宮」、布都姫(太姫)も「石上神宮」
年代は別にして~話の内容はほとんど同じでしょう??

<<関東三社>>

http://enlt.jp/ps/Togoku3/

東国三社と海

香取神宮、鹿島神宮、息栖神社の三社の神は海からやってきたという言い伝えがあり、三社とも海に面して鳥居があります

そして、息栖神社は西面します。西面する神社というのも珍しいのですが、本殿から見て正面方向がぴったり富士山になります

代表的なのは出雲大社で、本殿は南面しますが、内陣は西面するという構造を持っています

http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-4462.html

神社の格式で言えば~神宮の「香取・鹿島神宮」なんでしょうね~?!
でも「西方浄土・西王母」の一番古いしきたりで建てられているのは「息栖神社」だと思いますが・・・(ニギハヤヒ系)

https://matome.naver.jp/odai/2148418695212624901


東国三社


「鹿島神宮」「香取神宮」「息栖神社」は茨城県の霞ケ浦の一つ、外浪 逆浦(そとなさかうら)を取り巻く様に位置し「東国三社」と呼ばれる。

この三社を結ぶ事で二等辺三角形の形となり、富士山、日光東照宮などを示し、伊勢神宮・出雲大社との位置関係でも二等辺三角形となるなど、様々なラインが存在する

「日本書紀」では伊勢神宮、石上神宮、出雲大神宮(出雲大社)が神宮として記載

宇佐神宮・・・辛島氏
出雲大社・・・北島氏
鹿島神宮・・・鹿島氏

八嶋家の1つだと思うけれど??

<<嶋大国魂御子神社>>

http://www.genbu.net/data/tusima/simaookunitamamiko2_title.htm

神職八嶋家に伝わる伝承には、「八嶋大國魂神」の「八」の欠字とあるらしい。

また、『對州神社誌』には、
「日吉山王権現 正躰薬師木像高サ壹尺」と記されている。

社殿のいたるところに鶴の紋が付けられているので、
明らかに鶴紋が当社の神紋だろう。

<<物部神社>>

http://www.mononobe-jinja.jp/

物部(大国)首(主)の王(主=玉)
「将棋では王よりも~玉将」⇒「玉座」と言うでしょう?!

<<多賀大社>>

http://www.tagataisya.or.jp/sp/about/

お多賀さん=タカミさん

http://www.genbu.net/saijin/takamimusuhi.htm

また、高御産巣日神、神産巣日神をそれぞれ男神、女神とする説があり、
高天原に鎮まる天津神、「皇親神留伎命」「皇親神留弥命」であるとする説もある。
⇒チベット宮殿??

http://www.genbu.net/data/harima/yoi_title.htm

当社と子勝明神は、伊和三社とも称して
伊和大神の眷属であるという。
当社祭神が素盞嗚命、子勝神社祭神は稻田姫命であり、
伊和大神の父母であると考えられているらしい。


http://www.genbu.net/data/harima/sayo_title.htm

参道を進むと、砂利の境内。
社殿は拝殿・本殿ともに入母屋造。
本殿の形が、播磨国一之宮・伊和神社とよく似ている。
拝殿の扁額には「佐用姫大明神宮」。
拝殿の前に、ドラえもんのコケシのようなものがあるのだがなんだろう

『播磨国風土記』讃容(さよ)郡の項に、
出雲から来られた伊和大神と妹神(后神)・玉津日女命が当地の領有を競った時、
妹神(后神)が生きた鹿の腹をさいて、その血に稲を蒔いて一夜で苗が出たという。
伊和大神は「汝妹は五月夜(さよ)に植えつるかも」と言って去っていった。
よって、五月夜(さよ)の郡、讃容郡と名付けられ、
妹神(后神)を賛用都比賣命と名付けたとある。

http://www.genbu.net/data/harima/mikata_title.htm

明治三十六年までは高見大明神とも称され
また、高皇産靈神を祀る社として「タカミさん」とも呼ばれ、
三方東一宮とも称されていた。
明治十九年に県社に列格してからは、
単に県社ともよばれるようになった。

社殿には茗荷紋が付けられていた。

http://www.genbu.net/data/awaji/isekuruma_title.htm

津名郡の大社・伊弉諾神宮と三原郡の大社・大和大國魂神社は別格で、
当社は、その次なのだと主張しているのだろう。


http://www.genbu.net/data/oumi/oosima_title.htm

大嶋・奥津嶋神社

>>官位や格式は「勝者(権力者)が付けるから・・・」  ((汗))

万世男子一系にすると~「父系社会の方が上位に成ってしまう!。」

 太陽の通る道(NHK特別番組、昭和五十五年二月十一日放送) 「知られざる古代~謎の北緯三十四度三十二分を 行く」で報道されましたが、 奈良箸墓古墳を中心に東西に 対象をなして「二つの伊勢」が あります。 一つは東約七十キロメートルの 伊勢斎宮跡で、いま一つは西約 八十キロメートルの伊勢久留麻 神社と北淡町舟木石上神社です。 淡路島に「西の伊勢」があったという仮説がクローズアップされています

<<イザナギ神宮>>

http://www.genbu.net/data/awaji/izanagi2_title.htm

伊弉諾命が淡路島を生み、群神を生み終えて
幽宮を淡路之洲に営んだのが、当社の始まりという。従って、
古来、淡路島神とか津名郡に坐すので津名神、また鎮座地が多賀というところから、
多賀明神、多賀宮、あるいは島神などとも称された

http://www.genbu.net/data/awaji/ookunitama_title.htm

九世紀には既に官社に列し、延喜式では名神大社に列した古社。
正応二年(1289)、
一遍が当社に参詣し、
「名にかなふこころは西にうつせみの もぬけはてたる聲ぞすずしき」
という和歌を奉納。
当社を拠点に念仏布教を行った。



<<イザナミ>>

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%8A%E3%83%9F

火の神軻遇突智(迦具土神・カグツチ)を産んだため
に陰部に火傷を負って病に臥せのちに亡くなるが、その際にも尿や糞や吐瀉物から神々を生んだ




  

Posted by ポチ at 16:11Comments(0)⑥雑記 (1,207)▼

2017年08月06日

8月4日の記事

http://ameblo.jp/ici05876/entry-12145832555.html

⑧まず、朴氏初代の「朴赫居世」では、辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里面)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があり、卵を割ると中から幼児が出てきたので育て、10歳を越える頃には人柄が優れていたことから、六村の人たちは彼を王位につけたと。


⑫箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とし、長じて第2代南解次次雄の娘(阿孝夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた、と。  

⑬最後に、金氏始祖の「金閼智」では、脱解尼師今の治世時に、首都金城の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞き、夜明けになって瓠公に調べたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた

カササギに鶏⇒「鳥」
馬が卵(ウ)・・・

㉙また、大阪医科大学名誉教授松本秀雄は、「日本人は何処から来たか―血液型遺伝子から解く」で、
朝鮮民族は、相互移民や侵入などによって漢民族などの影響(混血)を受けていると述べており、実際、HLA遺伝子による調査で朝鮮民族は満州族や中国東北部の漢民族と近いといわれています

㉚韓国人の母系に日本人の特徴が出ているのは、縄文時代に日本人が移住し生活していたが、
その後、北方民族や漢民族に侵攻され、被征服民の定めとして男は根絶やしにされ、女だけが生き残ったためと考えられます。


王族や皇族は「殺されたか?~日本に逃げた  !!」


中央アジアのスキタイ系?!騎馬民族。
武神系~国造系~武士(源氏)

聖徳太子=上宮⇒上(宮)様・・・上様
「源氏の君」
神君 家康

鷹狩り⇒「遊牧騎馬民族」の王族の「高貴な趣味」

「君の名は・・・」  「**君」


公家(百済系)
「**殿」⇒「殿様」

「関白 秀吉  殿下」⇒関白ですが「殿の下=臣」  豊臣・・・
ちらっと「藤原氏のプライドが・・・」  www

馬に乗れない~牛車や御輿
「舟遊び」⇒南方系の王族の「高貴な趣味」

>>今も昔も同じですよ。
中国と日本との間にある「緩衝地帯」
そして中国と日本を結ぶ「貿易の中継点」

関西地方では「応仁の乱」「源平合戦」以外~大規模な戦争は余り起きては居ない。
毛利氏が大内氏を滅ぼし~その勢力拡大を目指したぐらい・・・

上杉・武田~上杉・北条
織田・今川~織田・武田~織田・朝倉(浅井)


<<藤原不比等>>  

http://fushigi-chikara.jp/sonota/3583/

http://www.genbu.net/data/etizen/kehi_title.htm


『古事記』仲哀記には、以下の記述がある。
建内宿禰命が、太子(誉田別命、後の応神天皇)を連れて、禊に訪れた時。
当地に坐した伊奢沙和気大神が、夜の夢に出現し、
「吾が名を御子の御名に易へまく欲し」と告げた。
さらに、「明日の旦、浜に幸すべし。名を易へし幣献らむ」。

翌朝、浜へ行くと、鼻の傷ついたイルカが浦いっぱいに集っていた。
⇒罪人とされた「入鹿一族」(流刑地)


屋船豊受気姫命は、延喜式に家屋守護の神と記され、 屋船久久廼遅命と共に信仰されている。また大殿祭祝詞に稲霊なりとあり、 「俗の詞に宇賀能美多麻といふ」とあって、宇迦之御魂神と同神とされる。

豊宇賀能売命は、丹後国の比治山の頂の真井に降った八人の天女の一人。
和奈佐老夫と和奈佐老婦が衣を隠したため天に帰れず、地上に留まり、 十年間老夫婦のもとで薬酒を醸して冨をもたらしたが、 老夫婦に追い出され各地をさまよって、奈具の村に鎮まった。

>>「推古天皇」を支えた「聖徳太子」
女帝を支え続けた「藤原不比等」

天皇家に蘇我氏の皇后
天皇家に藤原氏の皇后
⇒「母系集団の思想」

http://rekishi-club.com/?p=5196

翌585年(敏達天皇14年)、廃仏派の急先鋒、物部守屋に廃仏運動の、崇仏派に対する見せしめとして、彼女たちは法衣を剥ぎ取られて全裸にされ海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎で鞭打ちの刑に処された。

>>神仏論争に~「女性を暴行する事を絡めた事」⇒「卑怯者~武人のする事か??」

これが物部守屋 VS  蘇我馬子(聖徳太子)

その意趣返しが「讒言による~蘇我蝦夷・入鹿・聖徳太子一族の殺害」

http://nihonshi.hatenablog.com/entry/battle-of-hakusukinoe

そして、「唐との白村江の戦い」で大敗 !!
百済滅亡⇒百済系の移民・・・

>>百済系の武人の讒言によって~蘇我本家を滅ぼした
文官の「中臣鎌足」では「百済を救えない!」

そして、百済民の流入・・・
名前を変えた「藤原氏の台頭」

<<弓削道鏡事件>>

://www.sankei.com/west/news/150403/wst1504030002-n1.html

女帝に「ハニートラップ」  (涙)

>>「仏の顔も三度まで・・・」⇒「蘇民将来伝説」

<<天武天皇>>

『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始め、死後に完成した事業である。

http://historivia.com/cat4/emperor-tenmu/4549/

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

名の大海人は、幼少期に養育を受けた凡海氏(海部一族の伴造)にちなむ。『日本書紀』に直接そのように記した箇所はないが、天武天皇の殯に凡海麁鎌が壬生(養育)のことを誄したことからこのように推測されている[2]。

天智天皇の死後、672年に壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し、その翌年に即位した。その治世は14年間、即位からは13年間にわたる。飛鳥浄御原宮を造営し、その治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多い。日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代だが、持統天皇の統治は基本的に天武天皇の路線を引き継ぎ、完成させたもので、その発意は多く天武天皇に帰される[1]。文化的には白鳳文化の時代である。

>>百済の王子・新羅の王子と言っても「殆どが~日本出身」  www
また、当時の皇族・王族の母系は「朝鮮も日本も似通っている。」

つまり、当時の朝鮮の王族・皇族(両班)は殆ど~日本人と同じ遺伝子。
⇒両班と一般市民(朝鮮人)とは結婚不可!!
一般市民は「秦韓人」⇒その後、「中国~モンゴル(元)や清(匈奴)に支配されるまで・・・」

**日本は「漢・モンゴル(元)・清に支配されていない!!」
⇒日本人と朝鮮人の父系のDNAが違う理由。


>>逆に日本では「秦韓人の男を絶滅に近いほど・・・」  ((汗))
「女・子供に手を出すとは・・・」⇒「人に非ず=獣」
物部氏⇒佐伯部の軍人(兵隊)


結婚して「国籍や宗教や姓が変わっても~子供は子供、孫は孫」⇒DNAは変わらない   www








子供の時に、遊園地に連れて行ったり~お年玉をあげた「姪」には変わりはないですよ!
例え、結婚相手が貴族でも、農民でも・・・


http://www.huffingtonpost.jp/foresight/tenmu-tennou_b_5950426.html

強大な「大和王朝」  ⇒ 宇佐神宮に「皇位継承者のお伺いをする??」






  

2017年08月03日

百済王族

<<若沼毛二俣王子>>

応神天皇の皇子

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%9A%E9%87%8E%E6%AF%9B%E4%BA%8C%E6%B4%BE%E7%9A%87%E5%AD%90

国造[編集]

『先代旧事本紀』「国造本紀」では、次の国造が後裔として記載されている。
竺志米多国造 志賀高穴穂朝(第13代成務天皇)の御世に息長公同祖の稚沼毛二俣命孫の都紀女加を国造に定める、という。
のちの肥前国三根郡米多郷(佐賀県上峰町一帯)または筑前国夜須郡馬田郷・下坐郡馬田郷周辺(福岡県朝倉市一帯)に推定される[11]。

なお『古事記』では、上述のように若野毛二俣王の子の意富富杼王について
筑紫之末多君らの祖と記されている[11]。

<<百済  武寧王>>

武寧王(ぶねいおう、462年 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502年 - 523年)。『三国史記』百済本紀・武寧王紀によれば先代の牟大王(東城王)の第2子であり、諱を斯摩、
分注では隆とする。『梁書』では余隆、

『日本書紀』雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきし、第21代蓋鹵王)の子、名を嶋君とする。また、武烈天皇紀4年条では『百済新撰』の引用として、「いみ名は嶋王という。これは昆支王の子である。則ち末多王(東城王)の異母兄である」としながらも、
「今考えるに、島王は蓋鹵王の子である。末多王は昆支王の子である。これを異母兄というのはまだ詳しく判らない[1]」としている

{法隆寺}{広隆寺}⇒聖徳太子の関係した寺「・・・隆(=龍)」


<<百済  東城王>>

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%9F%8E%E7%8E%8B

『日本書紀』では、蓋鹵王の弟で日本に来ていた昆支の第二子の末多(また)とする。
『三国遺事』王暦では、名を牟大または摩帝とし、先代の三斤王の堂弟(父方の従弟)とする。
子に武寧王。

新羅との同盟(羅済同盟)を結ぶための使者の派遣も行っており、493年には通婚を要請して、新羅からは伊飡(2等官)[3]の娘が嫁いできた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%86%E6%94%AF%E7%8E%8B

また、『宋書』百済伝に、百済王余慶(蓋鹵王)が大明2年(458年)に宋に上表文を提出し、百済の将軍11名が宋から将軍号を認められているが、その中の征虜将軍の号を受けた左賢王余昆を、昆支王と同一人物とする説もある。

当時人質として日本に滞在していた昆支王の5人の子供のなかで、第2子の末多王が幼少ながら聡明だったので、天皇は筑紫の軍士500人を付けて末多王を百済に帰国させ、王位につけて東城王とした。」と記されている。

>>まぁ百済も大和国等を同じ「中国に朝貢していた国の一種」

百済から来た姫(母親)は人質かもしれませんが

応神天皇の孫やひ孫を人質と言うかどうか??


日本の皇位継承権は無いかも知れないけれど・・・

国造系、武将⇒源氏の棟梁=「征夷大将軍」(元は殷~周・秦の中国系)

http://yamatai.cside.com/yasumoto/tyosyo82.htm

>>天皇の送り名で「神」の名前が付いているのは
神武天皇・神功皇后・応神天皇の3名・・・

百済の武寧王=嶋君
蘇我馬子=嶋臣

http://rekishi-club.com/?p=5196

弥勒菩薩を譲り受けたのが「秦河勝」

百済から請来(しょうらい)した弥勒像供養のために、高句麗から招いた僧・恵便(えびん)に師事、出家し善信尼と名乗った。
彼女がまだ11歳のときのことだ。こうして日本初の出家者が誕生した。このとき、中国からの渡来人、恵善尼、禅蔵尼とともに、斎会を行ったと伝えられる。

 仏教の受け入れを巡る諸豪族の姿勢は、消極派が大勢を占めていた。


<<鶴林寺>> 

 兵庫県

http://www.kakurinji.or.jp/mainpage/top-kakurinji.htm

徳島県

http://www.yomiuri.co.jp/local/tokushima/feature/CO016251/20151121-OYTAT50027.html

<<司馬達等>>  坂田寺

http://www.bell.jp/pancho/asuka-sansaku/sakatadera-ato.htm

>>播磨の知識人や技術者に「教えを請う」⇒「強大な大和朝廷??」  (汗)

大和国の良い所と言えば「その謙虚さ・素直さでしょうか?」
やはり日本の原点の様な・・・??


でも「優しさだけでは~国や国民は守れない!」
武神が必要・・・(必要悪です)
世の中~善人ばかりでは無い!!

応神天皇系の文官=ハト派、武官(軍人)=タカ派。

古代の日本の指導者層は殆どが
「大陸から~移住して来た王族・皇族」  www
(D型の縄文系の濃い顔・・・でも色は白い)

「官僚の公家・農民が~弥生系の薄い顔」
⇒百済が滅亡してから~日本にやって来た百済系など・・・
まぁかなり朝鮮人や中国人との混血化。

>>聖徳太子も播磨の「鶴林寺で高麗の僧に(中国人?)~教えを請う。
司馬嶋も播磨で2年間勉強~百済に留学。
空海も播磨で勉強・修行していたと言う伝説が・・・

播磨のイルミナティー??  ((笑い))

当然、当時の事情は全く分りませんが・・・

<<気比神宮>>

http://www.genbu.net/data/etizen/kehi_title.htm

『古事記』仲哀記には、以下の記述がある。
建内宿禰命が、太子(誉田別命、後の応神天皇)を連れて、禊に訪れた時。
当地に坐した伊奢沙和気大神が、夜の夢に出現し、
「吾が名を御子の御名に易へまく欲し」と告げた。

『日本書紀』垂仁天皇の条には、
意富加羅国の王子・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、
またの名、于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)が、
当地、笥飯(けひ)の浦に到着し、角鹿と名づけたとある。

都怒我阿羅斯等は、白石から生れた姫神を追って日本へ来たともあり、
その姫神は、比売語曽社に祀られている。
『古事記』・応神記では、天之日矛(天日槍)が、阿加流比売という
赤玉から生まれた姫を追って来たとあり、
都怒我阿羅斯等は、天日槍と同一視されている。

以上のことから、氣比大神は、海人族による朝廷への服従のシンボル、
特に、海の幸の献上から、食物の神霊を祀った神であったものが、
海人族を通して、半島との交流が盛んになると、
半島神へと、その性格を変えていったと見ることもできるだろう。


>>何かこの辺で
神功皇后~応神天皇や「三韓への出兵」
百済の武寧王の名前の秘密が有りそうなんですね??

蘇我馬子~「蘇我蝦夷&入鹿」

http://www.bell.jp/pancho/k_diary-11/2014_04_16.htm

だから「気比神宮??

越前=流刑地⇒「白山信仰??」

**どうもこの事件が「継体天皇~神功皇后・仲哀天皇~応神天皇」の皇位継承や
神功皇后の三韓征伐に影響している様な??

http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/joe01.html

「中臣の鎌足」と「藤原不比等・天智天皇の謎」
そして、天智天皇が「日本書紀や古事記の編纂」

https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11241637655.html

藤原不比等は「蘇我氏系の女性と結婚しています。」
⇒蘇我氏の蝦夷・入鹿を殺した「中臣鎌足の息子ですよ?」
側室扱いなら「公家(貴族)には成りませんよね?」

藤原不比等=蘇我氏系の男子(蘇我入鹿の息子?孫?)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%8E%8C%E8%B6%B3

<<藤原鎌足>>



**朝鮮系(百済系)の官僚・・・確かに「少し長顔のような??」


そして臨終に際して大織冠とともに藤原姓を賜った。つまり、生きていた頃の彼を指す場合は「中臣鎌足」を用い、「藤原氏の祖」として彼を指す場合には「藤原鎌足」を用いる。青木和夫の研究によれば、鎌子から鎌足へと「改名」したというのは後世の解釈であり、本来の名は“鎌”一文字で、“子”や“足”は敬称に用いる語尾であるとしている[1]

645年、中大兄皇子・石川麻呂らと協力して飛鳥板蓋宮にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺、入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追いやった(乙巳の変)。この功績から、内臣に任じられ、軍事指揮権を握った。ただし、内臣は寵臣・参謀の意味で正式な官職ではない。また、唐や新羅からの外交使節の対応にもあたっており、外交責任者でもあったとみられている[3]。

その後、大化の改新を推進しようとする中大兄皇子の側近として、保守派の左大臣の阿部倉梯麻呂、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂と対立した。647年(大化3年)の新冠位制度では大錦冠(だいきんかん)を授与された。649年(大化5年)に梯麻呂・石川麻呂が薨去・失脚したあと勢力を伸ばし、654年(白雉5年)頃には大紫冠(だいしかん)に昇格した。
669年(天智天皇8年)、死の直前に天智天皇が見舞うと「生きては軍国に務無し」と語った。すなわち「私は軍略で貢献できなかった」と嘆いているのである。
これは白村江の戦いにおける軍事的・外交的敗北の責任を痛感していたものと考えられている(なお、白村江の戦いが後世の長屋王の変と並んで『藤氏家伝』に記載されていないのは共に藤原氏が関与していた事実を忌避するためであるとする説がある)[3]。
天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣に任ぜられ、「藤原」の姓を賜った翌日に逝去した。


**石川麻呂は「自殺」
中臣鎌足の息子は「出家~唐へ・・・(流刑??)」
中臣一族は「藤原姓を名乗る事は許されていない!」


**確かに「蘇我⇒藤原氏」に名前を貰っていますね!
鹿島神宮⇒「蘇我馬子=嶋大臣+入鹿=鹿島です。」
鹿がシンボルですね。

蘇我入鹿の息子~孫だから「気比神宮?!」

>>新羅系が北方系の騎馬民族=新羅(白)~源氏
百済系が海神族(朱砂)=赤色~平氏系

<<東播磨~丹波・丹後地方>>

(赤国神社)

http://www.genbu.net/data/tanba/akakuni_title.htm

法道仙人(赤国)~百済系??(中国南方系??)・・・海神族系

<<西播磨~但馬・出雲地方>>

http://www.geocities.jp/shirakunii/

牛頭天王・・・兵主神~八坂神社?
騎馬民族(神馬像)・・・新羅系(中国北方系)

(佐伯神社)

ご祭神は阿良津命といいます、孝謙天皇(718年(養老2)~770年(神護景雲4)の)御代(天平宝字2年)758年に命の孫の佐伯宿禰芸胡多という方が、お祀りになったのが創立であると伝承されています。佐伯大明神として祭祈されていましたが、天皇の思し召しにより佐伯姓を白國姓に改め白國宿禰となりました。ご祭神の阿良津命は、白國の地を開いた稲背入彦命の曾孫になります。

**弘法大師は「佐伯真魚」⇒「白国真魚」

(大歳神社)

第十五代應神天皇(5世紀)の頃から祭祈していたと伝承されています。第八十八代後嵯峨天皇(1220年~1272年鎌倉時代)の頃、飾東郡白國村の守護の武士(白國彈正左衛門)が、山の中腹に社を建立し、五穀豊穣(ごここほうじょう)等の農耕の神として、ことのほか崇敬し厚く祭祈したと伝えられています。以後、室町時代より現在までの約八百年間近隣の有志によって厚く祭祈されてきました。

**源氏の武家の方ですね。

<<伊和神社>>

http://www.genbu.net/data/harima/iwa_title.htm

左右の同型の二祠は、播磨十六郡の神々を祀ったもの。
右手には、西八郡の神々、
(多可・神東・神西・宍粟・揖東・揖西・佐用・赤穂)
左手には、東八郡の神々が祀られている。
(明石、美嚢、加古、印南、加東、加西、飾東、飾西)
さらに、左に五柱社
(天照皇大神・国底立大神・宇賀魂大神・猿田彦大神・須佐之男大神)

御祭神
大己貴神 配祀 少彦名神 下照姫神

>>天照が姉の大日姫
妹だから「下照姫」=稚日姫  www

こちらは多分、「呉の太伯系」
北陸は「越系??」
**呉越同船・・・

https://ameblo.jp/taishi6764/entry-11863325346.html


http://blog.goo.ne.jp/eigaku/e/e74ff9560954f6771276af718d0803ac

西日本で、白山信仰が普及しなかったのは、西日本の穢多村では、穢多・非人の職務について、規律と責任、近世警察官としての自負心を与える別の教説、浄土真宗の合理的な世俗化倫理が存在していたためでした。

次回(次項)は、徳山藩の「屠者」・「屠人」に関する資料を検証して、近世幕藩体制下の穢多・非人の役務の様相を具体的に考察します。次々回(次々項)に、穢多・非人に影響を及ぼした、浄土真宗の合理的な世俗化倫理を取り上げます。

>>武士は負けた方は「切腹・死刑~遠島、または降格(家臣)」
兵隊は負けた方は「奴隷」

関東の白山信仰??
大和タケルが東日本の「蝦夷」を「佐伯部(軍人)として組み込んだ。」
物部氏が保有していた奴隷を「蘇我氏と物部守屋の妹が財産として~山分け。」

蘇我氏は仏教派だから「奴隷は~寺院の労働力??」
でも元々、物部氏は山岳信仰だから・・・??






  

2017年08月03日

生と死について

8月1日

従兄弟の配偶者のお葬式




そして、娘が出産・・・二人目の孫が出来ました !!




お葬式の時、従兄弟(女性)の姉妹や姉と話をしたんですが・・・
私の親族は「死をあまり恐れない。」
⇒「何時かは死ぬ。」

皆そう言う感覚なんですね?!
だから、配偶者と感覚(考え方)が違って~時々、揉める !
私も嫁さんと・・・  ((汗))

「一人に成ると~淋しい。(特に夜)」
⇒真っ暗(闇)が怖い~電気を付けないと眠れない。
「死ぬのが怖い。」

「男だから、女だから・・」って言うよりも「根本的な考え方の違いでしょうね?!」
誰かに教わった訳でも無いのに・・・

>>感情よりも論理的に考えてしまいます。
もし人間が「不老不死」なら~「新しい命の誕生は必要無い。」
⇒地球上が人間だらけに成ってしまう。
でも肉体を持たない~「霊魂なら、不老不死は可能。」

先祖のいない人間はいない
⇒「先祖の魂」はDNAの中で生きている??

死ぬ事を考えている暇が有ったら「今をどう生きるか?」を必死で考えろ!



まぁ先祖が精一杯に生きてくれたお陰で
植民地にもされず~独立国家を保って来れた 
今の日本は~今の私たちの力だけでは無い。

人種なんて関係無いんですよ。
「日本が好きか?日本を守りたいか?」・・・それだけ!

アメリカや中国やその他の国が好きなら~行けば??
選択の自由です。
⇒その選択の自由すら無い国もまだまだ多い。





  

Posted by ポチ at 06:54Comments(0)⑥雑記 (1,207)▼

2017年08月01日

7月31日の記事

江戸時代の「大奥」の様に・・・
また現在の「男系の家長制度」をイメージしてしまうので~間違え易いですが・・・

スサノオとアマテラス
イザナギとイザナミ

「父系を中心とした集団」と「母系を中心とした集団」
通い婚~入り婿制度・・・

正室と側室⇒「女性の家柄によっても、王位継承権の有無。」
例え、「長子でも側室の子供は・・・」
「かぐや姫」

万世男子一系って、後年の事
⇒「推古天皇などの例」

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou79/kai07904.html

古代では「子供=貴重な労働力=財産」
女でも男でも・・・
また女の子が子供を産めば「間違いなく血は繋がっていますが・・・」
⇒男の子の子供は??(相手の女性を信じるしか・・・)
「どう考えても~豊臣秀頼の父親は???」

でも武人(軍人)は
血統よりも「強いか?弱いか?の実力主義」  ((汗))
「力こそ正義の世界・・・」
⇒王権なんて天下の周り物!!

だから古代は「主君が暗君なら~主君を変える事が普通ですね。」
長男が家督を継ぐとは限らない。
豊臣恩顧の大名が「徳川家康に味方・・・」
それを防ぐ為に「徳川幕府は~長子相続の家長制度」

バカ殿でも「幕府の閣僚がしっかりとしていれば・・・(官僚制度)」

<<共和制>>

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E7%8E%8B_(%E5%91%A8)


厲王(れいおう)は周朝の第10代王。

厲王の在位期間は佞臣・栄夷公を重用し、賢臣であった周公、召公等の諫言を退けて暴政を行ったとされ、民衆は物事を口にするのを憚り、視線によりその意図を伝え合ったとされる。これにより周の国勢は凋落し、朝政は腐敗を極めた。民衆の不満が募り、紀元前842年には民衆が王宮に侵入し、厲王を殺害しようとする国人暴動が発生した。事件に際して厲王は、鎬京を脱出して黄河を越え、彘(現在の山西省霍州市)に逃れた。そのため、周公と召公が代わって朝政を見る共和制が施行された。

紀元前828年(共和14年)に厲王が薨去し、周公及び召公により、厲王の子である姫静が即位して宣王となった。

また、宣王の世に厲王の末子である姫友は鄭に封じられ、鄭の桓公となる。

以上は『史記』に基づくものであるが、『竹書紀年』によれば、諸侯に推戴された共伯の和という人物が不在の王に代わって政務を執ったとされ、これが共和制の由来と説明されている。


>>伊勢神宮=天照大神・保食神(女系)・・・物部系
出雲大社=スサノオ・大国主(男系)・・・蘇我氏

物部守屋の娘(女系)と蘇我馬子(男系)
神仏習合・・・

万世男子一系の天皇家の始祖が「天照(女神)では・・・?!」
神の子孫だから「天王は神である!」⇒「明治政府の強引な解釈でしょうね?」
まぁ欧米列強に対抗する為に「国を強固にまとめる必要があった。」
⇒それが無ければ「日本も植民地??」

でもまたまた最近は
「男の子は当てに成らない~女の子が欲しい!」
少し回帰思考の人が・・・  ((笑い))

>>古代は「氏族が中心の世界」~今は「個人主義」

常識に基盤に成る~制度や考え方は「時代と共に変わる。」
幸せの価値観も・・・

今の常識や考え方で~古代史を見ると「間違え易い!!」
でも「先祖が居るから~今の自分がいる!」
「無からは~何も生まれません!」

猿か?シュメール人か?は知りませんが・・・
でもDNA解析では「日本人の始祖は~中近東系」
他の東アジア人とは少し違う!
⇒「古い歴史が多い。」  www

世界史を眺めて見たら・・・
「日本で生まれて良かったと思います。」
勿論、色々な不備・不足の不満はありますが・・・


http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/dd2c804f13c778e298aeb58f1521b58e

https://matome.naver.jp/odai/2135877029380445901

http://www.recordchina.co.jp/b172499-s0-c30.html

軽四やハイブリッド車~電車。
やっぱり日本の方が正解だったと思います。  
ガラパゴス化と言われても・・・  ww

文明が人間を幸せにするとは限らない・・・文明と自然との調和。
「自然の中に神々が宿っている。」⇒日本人の宗教観は良いと思いますね。
変える必要は全く無い!!

でも「進歩し続ける文明国の強国」で無いと「他国に侵略~奴隷 (涙)」
それも歴史が証明していますから・・・

https://matome.naver.jp/odai/2139618172521803401

http://tabi-labo.com/266262/bhutan

「幸せかどうかは、自分の心が決めること。自分が幸せなら周りの人も幸せにしたくなります」

と、達観した答えを教えてくれたとのこと。

毎日長い時間を祈りに費やすほど敬虔な仏教徒であるブータンの人々。彼らは将来を思い悩むよりも、今心地いいかを重視し、周りとの比較から幸せを定義するのではなく、自分で幸せを探そうとしているのでしょう。

>>修験道に近い考え方・・・

人と比較して~どうこうよりも・・・
自分が幸せかどうか??
「自分の生きる道を追求して行く!!」

「非暴力主義・平和主義」⇒理想的なんですが~「他国の人が同じ考え方とは限らない!」
チベットは侵略されましたから・・・  (汗)

<<チベット仏教と日本の仏教の違い>>

日本の仏教には「戦う武神(鬼?)が神や仏様を守護する。」
⇒必要悪!

http://www.shitennoji.or.jp/history.html

http://barbarossa.red/shitenno/




人種や肌の色は~関係無し (連合部隊)
八幡(応神天王系)

http://www.worldwide-transition.info/asuka/sogasi/iwainoran.html

http://www.genbu.net/data/buzen/takai_title.htm

<<応神天皇>>

http://ryufuu.cocolog-nifty.com/hibinokaze/2011/06/post-336c-1.html

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin12/harima.html

 その例をこの前あげさせてもらいましたが、「宇治天皇」というのが『播磨風土記』に出てまいります。これは応神天皇の皇太子、菟道稚郎子であるということは知られているわけです。ところが『古事記』『日本書紀』では「宇治天皇」という“ことば”がないわけです。菟道稚郎子は出て来ますけど・・・。
じゃあ、それを「宇治天皇」として扱っている『播磨風土記』と、たんなる「皇子」として扱っている『古事記』『日本書紀』と、どっちが本来の姿かと言うと、答えは『播磨風土記』、つまり本来は宇治天皇であった、と。
 これは伝承が示しますように、応神天皇の遺言として、長男でなくて、末の方ですけれども、菟道稚郎子に後を継がせたいと、こういう遺言をして亡くなられた、と書いてありますね。
その後、この菟道稚郎子と、のちの仁徳天皇(お兄さんですが)、その両方共、勢力を持っているように見えたんでしょう。例の、漁師が魚をどっちへ持って行っていいかわからなくて困った、という有名な話があるわけです。
ということは、もう菟道稚郎子は、実際は天皇の位についていたわけですね。にもかかわらず『古事記』『日本書紀』がそう書かないのは、結局仁徳が、自分ーー仁徳にとってさらに兄さんがいるわけてすがーー それを次々殺してしまうわけてすね。次々殺して最後自分だけ残った。そして自分が天皇になったという、こういう「仁徳」という名前とは裏腹のような行為が率直に書かれております。特に『古事記』にはそれが非常に単純明快に書かれています。
 この仁徳天皇の立場に立つとですね、どうも「宇治天皇」は困る。特に菟道稚郎子の直接(母を同じくしていた)妹(女鳥王)やその恋人(速総別王)を根絶やしに、殺していますからね。叛乱という名をつけて殺していますので、結局「宇治天皇」という存在はなかったことにして、応神天皇 ーー仁徳天皇のお父さんーー を自分(仁徳天皇)が受け継いだという形で、「正統的な伝承」をさせたわけですね。
 そういう「形式上の」というか、「仁徳天皇側の都合」に立った伝承を反映したのが『古事記』『日本書紀』である。ところが、実際は、歴史事実としては、菟道稚郎子は当然何年かわかりませんが、ある期間「天皇」であったと。それが父の応神の意志でもあった。そうしますと、その宇治天皇という名前は、勝手に後世造作したものではなく、本来の歴史事実そのものを反映している表現であると、こう考えるべきであろうと思います。


<兵主神神社>

http://sohsha.jp/under02.php

<<日本のやくざ>>  鬼子母神

http://www.kishimojin.jp/history/

もともと鬼子母神信仰は平安朝の昔から一般的な信仰としてありましたが、
法華信仰に生きる者、日蓮宗に属する者にとって、
鬼子母神はただ単に子供を守る神であるばかりでなく、信者・宗徒の外護神として崇められています。


>>軍人もやくざも「紙一重」  (汗)
合法(権力者側)か?非合法(反体制派)の違いだけ・・・
自覚しています。

源氏(武家)=日蓮宗
やくざ=鬼子母神信仰
創価学会が「日蓮宗を破門される理由?」

最近は「朝鮮系のやくざと共闘して~極道の道を踏み外しているような??」
付いていけない人が続出??