2017年08月08日

8月7日の記事

ワンコのブログなんですが
ボケて死ぬ前に・・・

まぁ「記紀に書かれた事が事実⇒例え、事実では無かったとしても・・・」
⇒それをひっくり返す程の証拠が今更出ないから!!
ただ自分なり「事実を推論するだけです。」⇒自分が納得すればOK.

>>「かぐや姫」
古代の日本が「母系集団で~男が通う婿入り婚。」

姓⇒「女性の氏母体」

http://manoryosuirigaku2.web.fc2.com/chapter2-8.html

 ところで、天武期に王姓を許されたのは大王から五世以内の人物だったことを既述しました。
そして大海人皇子が即位する前からだろうと思われますが、倉麻呂の子の日向は「日向王」と称され、日向の甥になる安麻呂は「壬申の乱」で大海人皇子についた「石川王」だと推定される、倉麻呂の孫です。
しかし馬子を含めて、彼らの直系の祖に大王はいません。

 だから、「(蝦夷が)母の財力によって」とある文は、逆にこの母を義母、つまり、蝦夷の妻の内の一人の母(義母)が太媛だったことを示している、と考えられるのです。

 ところで、蘇我と同祖と伝える有力一族、紀(臣)氏が伝えた『紀氏家牒』(きしかちょう)は、蝦夷(武蔵大臣)が物部族の神主家などを従えて「物部首」と称した、としています。そして、『紀』で身狭(むさし。武蔵)臣とも呼ばれた蘇我日向(身狭)が、「壬申の乱」の記事で、近江朝から飛鳥の興兵に使わされた宮人として「物部首(もののべのおびと)日向」と記されます。日向が天武期以降に活躍した記述はありませんが、皇極期には中大兄皇子の陰謀に利用され、『続紀』(「文武紀」)では日向王として死去を記されたほどですから、蘇我一族の中では名立たる官人だったわけです。
 蝦夷が大臣になる前から、蘇我氏や物部氏の蔵(倉)の管理に当たっていたのは、伯父の蘇我倉麻呂(そがのくらのまろ)だったと考えられ、孝徳朝で右大臣になった石川麻呂が日向に「物部首」の名と職責を与えたのではないか、と思っています。

>>皇祖神が「天照大神」
出身が蘇我氏なのに「物部首」⇒「入り婿」

卑弥呼も天照大神も女性でしょう??


<<石上神宮>>

http://www.isonokami.jp/shinwa/index.html

http://blog.goo.ne.jp/yoshi_iltuki/e/7ac0b5f6e53705f6c33e8588bc75ef15

「太姫(布都姫?!)が女王」とすれば~「物部守屋は親衛隊。」


http://www.bell.jp/pancho/k_diary-13/2014_12_05.htm

「蝦夷の母は物部弓削連(守屋)の妹の太姫で、蝦夷が弓削連死亡後に祭首を補佐した」とも記されています。
⇒弓削連(守屋)一族が滅んだだけ・・・
物部氏は「父系社会のピラミッド型では無く」~母系の独立した水平の氏集団(阿波踊りの連??)

太姫からすれば
「守屋が、尼僧を~裸にして、鞭打ち !」
⇒「野蛮な武者」

蘇我馬子⇒「流石は私が選んだ男  !!」
 「教養が有って~優しい  ((好き)) 」

相思相愛⇒「歌謡  高砂」の世界  ((爆笑))
物部氏の女性が「鶴」で~男が「鷹=武神系」ですよ?!

 ちなみに、「天武紀」(上巻)は病に臥した天智大王が大海人皇子を呼び出すのに、蘇我安麻呂(安摩呂)を遣わしたところから物語が始まります。彼は連子の子で、分家の中では大海人皇子に好意を抱いていた人物でした。またその妹の娼子(しょうし。まさこ)は不比等の初期の妻になって、武智麻呂(むちまろ。南家の祖)、房前(ふささき。北家の祖)と宇合(うまかい。式家の祖)を生んだとされています。

 物部太姫が馬子の妻だったから兄(守屋)を討つ夫(馬子)に策を授け、持統女帝は父(天智帝)を捨てて夫(天武帝)に従いました。
しかし、宝皇女が蝦夷の意向によって田村皇子と再婚した理由は、何だったのでしょうか?何か裏があるようですが、解明できません。

>>蘇我氏の血統である「源氏・藤原氏」は、「光源氏など・・・」⇒女性に人気!
地方豪族の物部氏に婿入り~「物部首(国造)など・・・」

http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-4.html?sp

大倭の国の仏法は、斯帰嶋(しきしま)の宮に天の下治しめし天国案春岐広庭天皇の御世、蘇我大臣稲目宿禰の仕へ奉る時、天の下治しめす七年歳次戊午十二月、度(わた)り来たるより創(はじ)まれり。(『元興寺伽藍縁起』:下記URLに現代語訳あり)
http://www.ookuninushiden.com/newpage24.html

志癸嶋(しきしま)天皇の御世戊午年十月十二日、百済国主の明王、始めて仏像経教并びに僧等を度(わた)し奉(たてまつ)る。勅して蘇我稲目宿禰の大臣に授けて興隆せしむる也。(『上宮聖徳法王帝説』)
http://www2.shiba.ac.jp/~shakaika/newpage4.htm


>>行基や空海が「民衆の為の仏教を広めた。」⇒こちらは有名ですが・・・

https://kotobank.jp/word/%E5%96%84%E4%BF%A1%E5%B0%BC-88421

達等はおそらく当人が百済から渡来した中国系帰化人で,これを《元亨釈書》が南梁の人と記しているのは《扶桑略記》に大唐漢人とあるのを中国渡来と速断したものであろう。…

>>百済から来たからって、朝鮮人とは限りませんよ?!
少なくとも、今の朝鮮人とは、DNAが多分違うと思います。

<<司馬 嶋の功績>>

①女性の為の宗教(先祖や菩提を弔う)を広めた。
②勉強して尼僧・・・後の紫式部や清少納言などに影響を与えた??
③平民も努力すれば~高い地位につける。

**行基や空海ほど知名度が無いのが~残念ですね。


<<ニギハヤヒ>>

http://tenkataihei.xxxblog.jp/archives/51868027.html

・ニギハヤヒは土着の長髄彦を殺して(妹の兄)~ニニギに帰順。
・蘇我馬子は物部守屋を殺して(妹の兄)~天皇に帰順。

ニギハヤヒは「石上神宮」、布都姫(太姫)も「石上神宮」
年代は別にして~話の内容はほとんど同じでしょう??

<<関東三社>>

http://enlt.jp/ps/Togoku3/

東国三社と海

香取神宮、鹿島神宮、息栖神社の三社の神は海からやってきたという言い伝えがあり、三社とも海に面して鳥居があります

そして、息栖神社は西面します。西面する神社というのも珍しいのですが、本殿から見て正面方向がぴったり富士山になります

代表的なのは出雲大社で、本殿は南面しますが、内陣は西面するという構造を持っています

http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-4462.html

神社の格式で言えば~神宮の「香取・鹿島神宮」なんでしょうね~?!
でも「西方浄土・西王母」の一番古いしきたりで建てられているのは「息栖神社」だと思いますが・・・(ニギハヤヒ系)

https://matome.naver.jp/odai/2148418695212624901


東国三社


「鹿島神宮」「香取神宮」「息栖神社」は茨城県の霞ケ浦の一つ、外浪 逆浦(そとなさかうら)を取り巻く様に位置し「東国三社」と呼ばれる。

この三社を結ぶ事で二等辺三角形の形となり、富士山、日光東照宮などを示し、伊勢神宮・出雲大社との位置関係でも二等辺三角形となるなど、様々なラインが存在する

「日本書紀」では伊勢神宮、石上神宮、出雲大神宮(出雲大社)が神宮として記載

宇佐神宮・・・辛島氏
出雲大社・・・北島氏
鹿島神宮・・・鹿島氏

八嶋家の1つだと思うけれど??

<<嶋大国魂御子神社>>

http://www.genbu.net/data/tusima/simaookunitamamiko2_title.htm

神職八嶋家に伝わる伝承には、「八嶋大國魂神」の「八」の欠字とあるらしい。

また、『對州神社誌』には、
「日吉山王権現 正躰薬師木像高サ壹尺」と記されている。

社殿のいたるところに鶴の紋が付けられているので、
明らかに鶴紋が当社の神紋だろう。

<<物部神社>>

http://www.mononobe-jinja.jp/

物部(大国)首(主)の王(主=玉)
「将棋では王よりも~玉将」⇒「玉座」と言うでしょう?!

<<多賀大社>>

http://www.tagataisya.or.jp/sp/about/

お多賀さん=タカミさん

http://www.genbu.net/saijin/takamimusuhi.htm

また、高御産巣日神、神産巣日神をそれぞれ男神、女神とする説があり、
高天原に鎮まる天津神、「皇親神留伎命」「皇親神留弥命」であるとする説もある。
⇒チベット宮殿??

http://www.genbu.net/data/harima/yoi_title.htm

当社と子勝明神は、伊和三社とも称して
伊和大神の眷属であるという。
当社祭神が素盞嗚命、子勝神社祭神は稻田姫命であり、
伊和大神の父母であると考えられているらしい。


http://www.genbu.net/data/harima/sayo_title.htm

参道を進むと、砂利の境内。
社殿は拝殿・本殿ともに入母屋造。
本殿の形が、播磨国一之宮・伊和神社とよく似ている。
拝殿の扁額には「佐用姫大明神宮」。
拝殿の前に、ドラえもんのコケシのようなものがあるのだがなんだろう

『播磨国風土記』讃容(さよ)郡の項に、
出雲から来られた伊和大神と妹神(后神)・玉津日女命が当地の領有を競った時、
妹神(后神)が生きた鹿の腹をさいて、その血に稲を蒔いて一夜で苗が出たという。
伊和大神は「汝妹は五月夜(さよ)に植えつるかも」と言って去っていった。
よって、五月夜(さよ)の郡、讃容郡と名付けられ、
妹神(后神)を賛用都比賣命と名付けたとある。

http://www.genbu.net/data/harima/mikata_title.htm

明治三十六年までは高見大明神とも称され
また、高皇産靈神を祀る社として「タカミさん」とも呼ばれ、
三方東一宮とも称されていた。
明治十九年に県社に列格してからは、
単に県社ともよばれるようになった。

社殿には茗荷紋が付けられていた。

http://www.genbu.net/data/awaji/isekuruma_title.htm

津名郡の大社・伊弉諾神宮と三原郡の大社・大和大國魂神社は別格で、
当社は、その次なのだと主張しているのだろう。


http://www.genbu.net/data/oumi/oosima_title.htm

大嶋・奥津嶋神社

>>官位や格式は「勝者(権力者)が付けるから・・・」  ((汗))

万世男子一系にすると~「父系社会の方が上位に成ってしまう!。」

 太陽の通る道(NHK特別番組、昭和五十五年二月十一日放送) 「知られざる古代~謎の北緯三十四度三十二分を 行く」で報道されましたが、 奈良箸墓古墳を中心に東西に 対象をなして「二つの伊勢」が あります。 一つは東約七十キロメートルの 伊勢斎宮跡で、いま一つは西約 八十キロメートルの伊勢久留麻 神社と北淡町舟木石上神社です。 淡路島に「西の伊勢」があったという仮説がクローズアップされています

<<イザナギ神宮>>

http://www.genbu.net/data/awaji/izanagi2_title.htm

伊弉諾命が淡路島を生み、群神を生み終えて
幽宮を淡路之洲に営んだのが、当社の始まりという。従って、
古来、淡路島神とか津名郡に坐すので津名神、また鎮座地が多賀というところから、
多賀明神、多賀宮、あるいは島神などとも称された

http://www.genbu.net/data/awaji/ookunitama_title.htm

九世紀には既に官社に列し、延喜式では名神大社に列した古社。
正応二年(1289)、
一遍が当社に参詣し、
「名にかなふこころは西にうつせみの もぬけはてたる聲ぞすずしき」
という和歌を奉納。
当社を拠点に念仏布教を行った。



<<イザナミ>>

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%8A%E3%83%9F

火の神軻遇突智(迦具土神・カグツチ)を産んだため
に陰部に火傷を負って病に臥せのちに亡くなるが、その際にも尿や糞や吐瀉物から神々を生んだ






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